なりたいじぶんになるために~よりよく生きるためのファッションとは〜

★じぶん探しとファストファッション

人は何のために、何を目的として生きているのだろうか。
たとえば、「社会に貢献するため」、もしくは「子孫を残すため」かもしれない。または「日々、何かを学んで成長するため」という人もいるだろう。人によって、その人生観は実に様々であろうし、この命題の答えを模索し続けることこそ、生きるということだとも言える。
 「何のために生きるか」は、心理学や哲学における不変のテーマのひとつでもある。なぜか。つまり、じぶんの人生の目的を明確に持っている人はごく僅かなのである。では、なぜ人という生き物はこれほどじぶん自身のことが分かっていないのだろうか。
 視点を変えて、ここで「モラトリアム」という心理学用語について考えてみよう。語源はラテン語の「mora(遅延)」「morari(遅延する)」で、もともとは経済学用語の「支払猶予期間」のことだったそうだ。心理学者エリク・H・エリクソンが「青年が大人になるまでに必要とする猶予期間」という意味で心理学に導入したのである。
 青年期、「じぶんはどうやって生きていくのか」「じぶんがほんとうにやりたいことは何か」などを自身に問いかけ、悩むことで自己のアイデンティティーを確立していく心の動きがある。そのなかで得られた「これこそじぶんが求める人生の目的だ」という実感を「自己同一性=セルフ・アイデンティティー」と言う。つまり、思春期から人は「何のために生まれてきた?」「将来、どんな仕事をしたらいい?」「どうして、友だちのAさんと私はこんなに違うのか?」といったことを考えはじめ、悩むのであるが、これは大人になるための通過儀礼のひとつである。エリクソン自身が生涯、じぶんのアイデンティティーの確立に悩んだことから「モラトリアム」や「自己同一性」の概念を生みだしたと言われている。少し話は逸れるが、エリクソンについて、少し解説をしておくと、彼は母親が初婚のときに不倫をしてできた子どもだったと言われている。彼の母親は、生きている間にエリクソンの出生の真実を告げることはなかったらしい。そのため、母の再婚相手(エリクソンにとっての義理の父親)を本当の父親だと誤解したエリクソンが父とじぶんがあまりにも似ていないことで、じぶんのルーツへの疑問に生涯、悩むこととなった。
 エリクソンのような複雑な生いたちは稀なケースだとしても現代人は、つねにじぶん探しをする生き物という印象が強い。慶応大学の小此木教授も「本来は青年期だけの、つまりモラトリアム特有の悩みに対して大人になっても答えを探し続けていることが多くなった」と指摘している。教授の執筆による「モラトリアム人間」なる本の出版は1970年代のことで当時、かなり話題になった。
 なぜ、大人になりきれない人間が多いのかについては以下のように考察する。いろいろと頭のなかでシミュレーションはするものの、実際に行動に移すことが少ないため、現実での経験値が不足しているためではないだろうか。
 では、なぜ、行動することができないのか。その理由のひとつに「リスクを負いたくない」という恐れが考えられる。リスクを冒して失敗するのを回避したいがため、個の世界にひきこもっているのではないか。
 現代の20~30代を指して「低温世代」という言葉がある。就職氷河期にやっとの思いで就職した世代であり、たとえば本心では転職を希望する事態になったとしても、再度大変な思いをして仕事を探さないといけないという恐怖から現状維持に甘んじてしまいがちなのが特徴とされる。彼らの多くは競争を好まず、身の丈にあった「ほどほどの幸福」で満足している。そんな彼らの選択肢の少なさは、実体験の少なさに起因しているのではないだろうか。これまでの人生のなかで何かに挑戦した経験が少なければ、おのずと成功体験も限られる。成功した達成感や充実感をあまり得た経験がなければ、たった一度の失敗でも心理的ダメージは大きいだろう。「また、あんな思いをするのはイヤだ……」という思いから、未来への期待よりも現状の平和を維持する道を選んでしまうのである。
 失敗することはそれほど悪いことではない、ということを若者達に分かりやすく伝えることが、今の世の中には必要なのであろう。失敗体験を経て人は少しずつ強くなれる。折れにくい心が育めるのである。苦しみを経験するたびにじぶんがどんな人間が少しずつわかっていく。モラトリアムに勇気を持って向き合うことで自己同一性を確立し、大人としての内面の強さが育まれるのである。
 近年、巷で市民権を得ているファストファッション。ファストファッション(fast fashion)とは、トレンドを採り入れた低価格の衣料を短いサイクルで大量生産・販売するファッションブランドやその業態を指す(出典元:ウィキペディア)。早くて安くておいしいファストフードにちなんだ造語で、2000年代半ばころから認知されるようになったとされる。このファストファッションの台頭がファッションと人との関わり方にモラトリアム現象を発生させているのではないか、と筆者は考察する。
 かつて日本のファッション業界において製造・流通・販売はそれぞれ独立したものだった。その一連の流れを1社で行うことにより、スピーディーで低コストゆえの低価格商品が販売できるようになったのがファストファッションである。バブル崩壊後、デフレが進んだ日本において、まさに時代の申し子のようなファッションであった。「洋服代をできるだけ抑えたい。でも、トレンドも意識したい」という時代のニーズを捉え、近年の急成長になった。
 ファストファッションは、手ごろな価格・気軽なファッションという魅力がある反面、とかく着捨てファッションになりがちである。その要因は低価格ゆえの耐久性に欠けた素材・トレンドを反映した一過性のデザインの服、などが挙げられる。
 では、ファストファッションが時代を席捲する前の流行は、どうであったか? いわゆるDCブランドのブームも含めたモード系のファッションであった。モード(mode)とは、もともとフランス語で流行やファッションを意味する。モード系ファッションとは、コレクションで発表される最新のファッションを指し、特徴はデザイナーやブランドのオリジナリティやクリエイティビティを反映している点であろう。かつてのDCブランドブームの時代において、ファッションとは「いかにヒトと違う装いをするか」がテーマであった。なぜなら、モード系のブランドは、流行を追うのではなく、作りだすことが命題であったからだ。素材や縫製などにこだわった上質のアイテムはどれも高価格であり、一部の富裕層以外、ファッションに好感度な人間は選択を重ねて購入する必要があった。欲しい服をある程度、大量購入できるファストファッションとの大きな相違点であろう。
 ファストファッションとモード系ファッションのどちらを選択するかは、個人のファッションに対する捉え方や費用対効果によって様々であろう。ではあるが、ファストファッションで満足しているとファッションに対する感性が磨かれることはないのである。
 たとえば、ファストフードばかり食べている人間について考えてみよう。お世辞にも健康的とは言えない。もし成長期の子どもであれば栄養も不足しがちである。ファッションでも同じことが言える。ファストファッションばかりで満足していた場合、おしゃれに関する素地が育まれにくくなり、上質に対する感性も磨かれる機会も無くなるのである。
 じぶんに似合うファッションを探している間はいわば、ファッション・モラトリアム時代といえよう。その期間、ファストファッションはもちろん、多様なファッションを試すという冒険心も必要なのである。ファッションはいろいろなシーンや対面する相手によって変化する必要がある。さまざまな経験を踏まえてこそ「この場面には、このファッションである」というノウハウを得ることが可能となり、その後の選択も容易になる。
 「じぶんはじぶん以外の何者でもない」という意識が何よりも重要である。すべての人は世界にただ一人のユニークな存在であってしかるべきなのだ。だれもがすぐ手にできるお手軽ファッションはユニークな存在を「十把一絡げ」の存在として語ってしまうかもしれないということを認識すれば、ファッションと人とのつきあい方は変わっていくはずである。